2008.06.04
オリセット(R)ネットのウェブサイト
ワールド・スイム・アゲンスト・マラリアの日本での活動を通じた募金は、すべて住友化学株式会社が作っている「オリセット(R)ネット」という高性能な蚊帳の購入に充てられています。
このたび、そのオリセット(R)ネットのことを非常に分かりやすくまとめたウェブサイトが出来ました。
住友化学 −マラリア撲滅のために−
http://www.olyset-net.jp/

マラリアの現状などについても、大変分かりやすく情報がまとめられています。
ぜひご一読ください。
このたび、そのオリセット(R)ネットのことを非常に分かりやすくまとめたウェブサイトが出来ました。
住友化学 −マラリア撲滅のために−
http://www.olyset-net.jp/

マラリアの現状などについても、大変分かりやすく情報がまとめられています。
ぜひご一読ください。
2008.05.27
オリセット(R)ネットの記事
日本でのワールド・スイム・アゲンスト・マラリアの活動を通じた募金は、すべて住友化学株式会社の生産しているオリセット(R)ネットという蚊帳の購入に充てられています。そのオリセット(R)ネットに関する記事が毎日jpに出ていたので、リンクをはります。
アフリカ支援:米倉弘昌・住友化学社長に取り組みを聞く
http://mainichi.jp/select/biz/news/20080527k0000m020118000c.html
アフリカ支援:米倉弘昌・住友化学社長に取り組みを聞く
http://mainichi.jp/select/biz/news/20080527k0000m020118000c.html
2008.05.05
ワールド・マラリア・デー
あまり知られていないですが、4月25日は World Malaria Day ワールド・マラリア・デー(世界マラリアの日?)だったのですね。
私もほとんど知りませんでした(^_^;)。

この日は2001年以来、”アフリカ・マラリア・デー”と定められていたのですが、昨年からこの日を”ワールド・マラリア・デー”とするよう改定されました。
世界のリーダーたちが、”マラリアの日”を定めることによって、マラリアに関する意識の向上を図っています。
国連でも、バン・キムン事務総長はじめ、国連機関のトップたちが集まって、2010年12月31日までに地球上のすべての人々にマラリア対策を施すことを方針として掲げました。
ユニセフのウェブサイト(英語)
世界中で、子どもの一番の死因であるマラリア対策の必要性が説かれています。
ワールド・マラリア・デーのウェブサイトのトップページにも、英国のブラウン首相。
日本政府、外務省もアフリカ支援の一環で、マラリア対策として多額の支援をしています。
それでもやはり、世界で6億人が危険にさらされている「マラリア」に関する日本人の知識・関心は少ない。
どうしたらいいのでしょうね・・・?
考えなければ・・・!
井本直歩子
私もほとんど知りませんでした(^_^;)。

この日は2001年以来、”アフリカ・マラリア・デー”と定められていたのですが、昨年からこの日を”ワールド・マラリア・デー”とするよう改定されました。
世界のリーダーたちが、”マラリアの日”を定めることによって、マラリアに関する意識の向上を図っています。
国連でも、バン・キムン事務総長はじめ、国連機関のトップたちが集まって、2010年12月31日までに地球上のすべての人々にマラリア対策を施すことを方針として掲げました。
ユニセフのウェブサイト(英語)
世界中で、子どもの一番の死因であるマラリア対策の必要性が説かれています。
ワールド・マラリア・デーのウェブサイトのトップページにも、英国のブラウン首相。
日本政府、外務省もアフリカ支援の一環で、マラリア対策として多額の支援をしています。
それでもやはり、世界で6億人が危険にさらされている「マラリア」に関する日本人の知識・関心は少ない。
どうしたらいいのでしょうね・・・?
考えなければ・・・!
井本直歩子
2008.04.30
「マラリア、北朝鮮から韓国にへ定着の兆し」
マラリアに関する記事を発見したので、以下にリンクをはります。
マラリア、北朝鮮から韓国に定着の兆し、ソウル大研究チームが警告
(2008年04月29日 18:42 発信地:ソウル/韓国)
http://www.afpbb.com/article/life-culture/health/2384978/2881980
‘軍隊病’だったマラリア、一般人に広がる
(2008.04.29 09:01:56 中央日報 Joins.com)
http://japanese.joins.com/article/article.php?aid=99375&servcode=400§code=400
マラリア、北朝鮮から韓国に定着の兆し、ソウル大研究チームが警告
(2008年04月29日 18:42 発信地:ソウル/韓国)
http://www.afpbb.com/article/life-culture/health/2384978/2881980
‘軍隊病’だったマラリア、一般人に広がる
(2008.04.29 09:01:56 中央日報 Joins.com)
http://japanese.joins.com/article/article.php?aid=99375&servcode=400§code=400
2008.03.19
マラリア体験記 その1
マラリアって一体何・・・?と思われる方も少なくはないでしょう。
日本にとってはマラリアはHIVエイズよりももっともっと遠い存在。
でも実際はアフリカで最も多い死因のひとつで、日本人でもアフリカでマラリアにかかった方が沢山いらっしゃいます。
ネパールの首都カトマンズでNGOに勤務されている田中雅子さんもその一人。2003年にマラリアにかかり、九死に一生を得ました。
以下はその恐ろしい体験談です。
------------------------------------------------------------
蚊が媒介する感染症は予防接種によって防ぐことができると思っておられる方が多いの
ですが、デング熱やマラリアは未だワクチンは開発されておらず、蚊に刺されるのを防
ぐしかありません。蚊取り線香や虫除けスプレーはもちろん、寝るときには蚊帳は欠か
せませんが、それでも蚊に刺されることを100%防ぐことはできず、体力が落ちていると
きにマラリアにかかると重症化することもあります。
2年前、私自身も脳性マラリアが重症化し、当時勤務していた西アフリカのガーナから
フランスのパリの病院に緊急移送され一命を取りとめました。マラリアにかかり移送先
の病院でなくなった日本人の知人もいますから、私はとても幸運だったと思います。
在勤地ボルガタンガ(ガーナ北東部)で発症してから日本で回復するまでの経緯を
病後すぐ綴ったメモがあるので、その一部をご紹介します。
−−−−
■マラリア
2003年9月20日夜のこと、ベッドに入ろうとしたとき、いつになく悪寒がしました。翌
21日朝、検温してみると37度を越えており頭痛もします。蚊帳、蚊取り線香、虫除けス
プレーを使うのは勿論、人一倍蚊に刺されないように気を遣っていたのに、マラリアに
かかったのでしょうか。
日曜で病院は閉まっていたので、簡易マラリア検査キットを使ってテストするこ
とにしました。しかし、私は生来、血液を扱うのが苦手で十分な血が取り出せず
うまくいきません。結局、私が借りている家の大家さんがたまたま州立病院の院
長をしているので、その方にお願いして、検査担当の職員に来てもらい採血。病
院での検査とキットの両方とも出た結果は陽性。昼ごろ、赴任時に買ったマラリ
ア治療薬を飲み始めました。
午後は39度まで熱が上がり、頭痛もしたので解熱剤を飲みましたが、頭痛以外、
マラリアの症状とされる関節痛や下痢はなく、ボルガタンガで治療できそうだと
思っていました。何度も熱帯熱マラリアに罹っているオランダ人の隣人や大家さ
んが、様子を聞くため数時間おきに電話をかけてきてくれたので不安は感じませ
んでした。
■首都アクラへ
しかし、翌22日も熱は下がらず頭痛は激しくなりました。マラリアで粘着性を増
した赤血球が脳の毛細血管をつまらせるという「脳性マラリア」を疑い、体力の
あるうちに首都まで移動することにしました。800キロ以上離れたアクラまで移動する
時は、いつも午前6時に出発することにしていますが、任地を不在にするとなると、
伝言を頼んだり、銀行へ行ったりと済ませなくてはならない用事も多く、出発したの
は午前11時。普段「時速100キロ以上は出さないで」と運転手に注意する私も、
この日は「とにかく今日中にアクラに着くように」と頼み、後部座席で横になっ
ていました。
事前に職場から入院のお願いをしていた病院に着いたのが夜9時。渋滞に巻き込
まれながらも10時間での移動は新記録。途中、時速150キロ近く出していたのに
事故に遭わなかったのが何よりでした。入院した病院では、翌日まで検査ができ
ませんでしたが、職場の医療調整員の方が来てくださり、ひとまず安心。「脳性
マラリアだったら、喋ったりできないよ」と言われ、大袈裟すぎたかと少々反省
しました。確かにその日は自分で病院の手続きもし、しっかりしていました。
23日は血液検査をし、医療調整員の方と話をしたことは覚えているのですが、こ
こから先の記憶がありません。その翌日24日朝まで、意識はしっかりしていたそ
うですが、私自身の記憶はここで途切れています。
■緊急移送
24日の午後、私の容態は急変し、医療調整員や職場の人を認識できず、英語しか
話さなくなり、病院内を徘徊するなど異常行動が見られるようになったそうです。
その段階で、脳性マラリアによる意識障害の疑いがあると判断され、フランスに
緊急移送されることになりました。
25日の午後、医療チームを乗せた救援機が到着し、翌26日午前2時パリ到着。アメ
リカン・ホスピタルという病院に入院し30日まで集中治療室(ICU)で治療を受
けました。ネパールで働いている連れ合いが27日に到着したときには日本語での
会話はかろうじてできるようになっていたそうですが、脈絡のないことばかり喋
り、幻覚症状もあったようです。
時間と場所の見当意識(今がいつで、自分がどこに居るかを認識する力)がなか
なか戻らず、「XX(ネパールのスラム)でミーティングがあるから行かなきゃいけ
ない」「YY(バングラデシュでの勤務先)で献血キャンペーンがあるから出かけ
る」と言っては、点滴を外して動こうとするため、ICUではベッドに縛り付けら
れていたそうです。付き添っていた夫と暮らしていたのがネパールやバングラデ
シュだったので、その時のことを先に思い出したのでしょう。その後、ガーナで
のことも話すようになったようですが、私はICUでのことは今も断片的にしか思
い出せません。
■回復
一般病棟に移って、ようやく自分がどこにいるのかわかりました。病室に窓があ
って空が見えたのがとても嬉しかったです。意識が戻って数日は、食事や排泄、
注射、検温など目の前のことをこなすのに精一杯でしたが、気持ちに余裕が出て
から、記憶にない1週間のことを連れ合いに聞きました。自分がどんな表情で、
何を話していたのか、その時初めて聞いてショックを受けました。
短期間であれ、意識障害に陥り、今もその時の記憶がないというのは怖い体験で
す。英語しか話さなくなったり、日本のことではなくネパールのことから思い出
し始めたのはどうしてか、と入院中はこの10年余りの自分の生活のことを考えさ
せられました。また、これまで私自身、病気と無縁だったので、闘病生活を送っ
ていた知人たちがどういう思いで入院していたか、考えてもみなかったことを反
省もしました。
最初は自分がガーナから持ってきたものの色や形、大きさが違って見えたり、日
本語を書こうとしても漢字が思い出せない状態にありましたが、その後、日ごと
に容態は回復し、10月10日にパリの病院を退院するときには、意識のほうは全く
問題なくなりました。
しかし、体力が落ちているため日本で療養することになり11日に日本に戻りまし
た。早速日本の病院でも受診しましたが、マラリアの後遺症は見られず入院や投
薬も必要ないということでした。
■助かった私
日本に帰国後、家族や友人から「もうそんな大変なところには行かなくてもいい
じゃない」と言われ、私はとても複雑な気分です。早く任国に戻りたいという一
心で、回復に努めてきたのですから。
発症の前日に書いていた個人通信の下書きに、私は次のような文章を書
いていました。「地元のラジオ局は、毎朝、下痢でなくなった人の死体は水源か
ら遠いところに埋葬しましょう、と呼びかけています。病気だけでなく、事故も
多い当地では、この2ケ月、私と一緒に働く人やその家族がたて続けに亡くなり、
お悔みに出かけることがしばしばありました」。
ボルガタンガでの私は、たくさんの死を受け止めなければいけない人たちの中で
暮らしていました。今回、私は救援機でパリまで移送され、幸い家族にもすぐ連
絡が取れ、意外に早く回復することができましたが、ガーナの人たちに私の幸運
をどう伝えたものか、パリの病院にいるときから考え続けています。もちろん、
彼らも私が助かったことを喜んでくれるでしょうが、車で一人アクラに向かった
日、何となく後ろめたい気持ちがありました。ガーナの人たちが同じように助か
るわけではないですから。
(2003年10月「ボルガタンガ便り」より一部修正して再録)
日本にとってはマラリアはHIVエイズよりももっともっと遠い存在。
でも実際はアフリカで最も多い死因のひとつで、日本人でもアフリカでマラリアにかかった方が沢山いらっしゃいます。
ネパールの首都カトマンズでNGOに勤務されている田中雅子さんもその一人。2003年にマラリアにかかり、九死に一生を得ました。
以下はその恐ろしい体験談です。
------------------------------------------------------------
蚊が媒介する感染症は予防接種によって防ぐことができると思っておられる方が多いの
ですが、デング熱やマラリアは未だワクチンは開発されておらず、蚊に刺されるのを防
ぐしかありません。蚊取り線香や虫除けスプレーはもちろん、寝るときには蚊帳は欠か
せませんが、それでも蚊に刺されることを100%防ぐことはできず、体力が落ちていると
きにマラリアにかかると重症化することもあります。
2年前、私自身も脳性マラリアが重症化し、当時勤務していた西アフリカのガーナから
フランスのパリの病院に緊急移送され一命を取りとめました。マラリアにかかり移送先
の病院でなくなった日本人の知人もいますから、私はとても幸運だったと思います。
在勤地ボルガタンガ(ガーナ北東部)で発症してから日本で回復するまでの経緯を
病後すぐ綴ったメモがあるので、その一部をご紹介します。
−−−−
■マラリア
2003年9月20日夜のこと、ベッドに入ろうとしたとき、いつになく悪寒がしました。翌
21日朝、検温してみると37度を越えており頭痛もします。蚊帳、蚊取り線香、虫除けス
プレーを使うのは勿論、人一倍蚊に刺されないように気を遣っていたのに、マラリアに
かかったのでしょうか。
日曜で病院は閉まっていたので、簡易マラリア検査キットを使ってテストするこ
とにしました。しかし、私は生来、血液を扱うのが苦手で十分な血が取り出せず
うまくいきません。結局、私が借りている家の大家さんがたまたま州立病院の院
長をしているので、その方にお願いして、検査担当の職員に来てもらい採血。病
院での検査とキットの両方とも出た結果は陽性。昼ごろ、赴任時に買ったマラリ
ア治療薬を飲み始めました。
午後は39度まで熱が上がり、頭痛もしたので解熱剤を飲みましたが、頭痛以外、
マラリアの症状とされる関節痛や下痢はなく、ボルガタンガで治療できそうだと
思っていました。何度も熱帯熱マラリアに罹っているオランダ人の隣人や大家さ
んが、様子を聞くため数時間おきに電話をかけてきてくれたので不安は感じませ
んでした。
■首都アクラへ
しかし、翌22日も熱は下がらず頭痛は激しくなりました。マラリアで粘着性を増
した赤血球が脳の毛細血管をつまらせるという「脳性マラリア」を疑い、体力の
あるうちに首都まで移動することにしました。800キロ以上離れたアクラまで移動する
時は、いつも午前6時に出発することにしていますが、任地を不在にするとなると、
伝言を頼んだり、銀行へ行ったりと済ませなくてはならない用事も多く、出発したの
は午前11時。普段「時速100キロ以上は出さないで」と運転手に注意する私も、
この日は「とにかく今日中にアクラに着くように」と頼み、後部座席で横になっ
ていました。
事前に職場から入院のお願いをしていた病院に着いたのが夜9時。渋滞に巻き込
まれながらも10時間での移動は新記録。途中、時速150キロ近く出していたのに
事故に遭わなかったのが何よりでした。入院した病院では、翌日まで検査ができ
ませんでしたが、職場の医療調整員の方が来てくださり、ひとまず安心。「脳性
マラリアだったら、喋ったりできないよ」と言われ、大袈裟すぎたかと少々反省
しました。確かにその日は自分で病院の手続きもし、しっかりしていました。
23日は血液検査をし、医療調整員の方と話をしたことは覚えているのですが、こ
こから先の記憶がありません。その翌日24日朝まで、意識はしっかりしていたそ
うですが、私自身の記憶はここで途切れています。
■緊急移送
24日の午後、私の容態は急変し、医療調整員や職場の人を認識できず、英語しか
話さなくなり、病院内を徘徊するなど異常行動が見られるようになったそうです。
その段階で、脳性マラリアによる意識障害の疑いがあると判断され、フランスに
緊急移送されることになりました。
25日の午後、医療チームを乗せた救援機が到着し、翌26日午前2時パリ到着。アメ
リカン・ホスピタルという病院に入院し30日まで集中治療室(ICU)で治療を受
けました。ネパールで働いている連れ合いが27日に到着したときには日本語での
会話はかろうじてできるようになっていたそうですが、脈絡のないことばかり喋
り、幻覚症状もあったようです。
時間と場所の見当意識(今がいつで、自分がどこに居るかを認識する力)がなか
なか戻らず、「XX(ネパールのスラム)でミーティングがあるから行かなきゃいけ
ない」「YY(バングラデシュでの勤務先)で献血キャンペーンがあるから出かけ
る」と言っては、点滴を外して動こうとするため、ICUではベッドに縛り付けら
れていたそうです。付き添っていた夫と暮らしていたのがネパールやバングラデ
シュだったので、その時のことを先に思い出したのでしょう。その後、ガーナで
のことも話すようになったようですが、私はICUでのことは今も断片的にしか思
い出せません。
■回復
一般病棟に移って、ようやく自分がどこにいるのかわかりました。病室に窓があ
って空が見えたのがとても嬉しかったです。意識が戻って数日は、食事や排泄、
注射、検温など目の前のことをこなすのに精一杯でしたが、気持ちに余裕が出て
から、記憶にない1週間のことを連れ合いに聞きました。自分がどんな表情で、
何を話していたのか、その時初めて聞いてショックを受けました。
短期間であれ、意識障害に陥り、今もその時の記憶がないというのは怖い体験で
す。英語しか話さなくなったり、日本のことではなくネパールのことから思い出
し始めたのはどうしてか、と入院中はこの10年余りの自分の生活のことを考えさ
せられました。また、これまで私自身、病気と無縁だったので、闘病生活を送っ
ていた知人たちがどういう思いで入院していたか、考えてもみなかったことを反
省もしました。
最初は自分がガーナから持ってきたものの色や形、大きさが違って見えたり、日
本語を書こうとしても漢字が思い出せない状態にありましたが、その後、日ごと
に容態は回復し、10月10日にパリの病院を退院するときには、意識のほうは全く
問題なくなりました。
しかし、体力が落ちているため日本で療養することになり11日に日本に戻りまし
た。早速日本の病院でも受診しましたが、マラリアの後遺症は見られず入院や投
薬も必要ないということでした。
■助かった私
日本に帰国後、家族や友人から「もうそんな大変なところには行かなくてもいい
じゃない」と言われ、私はとても複雑な気分です。早く任国に戻りたいという一
心で、回復に努めてきたのですから。
発症の前日に書いていた個人通信の下書きに、私は次のような文章を書
いていました。「地元のラジオ局は、毎朝、下痢でなくなった人の死体は水源か
ら遠いところに埋葬しましょう、と呼びかけています。病気だけでなく、事故も
多い当地では、この2ケ月、私と一緒に働く人やその家族がたて続けに亡くなり、
お悔みに出かけることがしばしばありました」。
ボルガタンガでの私は、たくさんの死を受け止めなければいけない人たちの中で
暮らしていました。今回、私は救援機でパリまで移送され、幸い家族にもすぐ連
絡が取れ、意外に早く回復することができましたが、ガーナの人たちに私の幸運
をどう伝えたものか、パリの病院にいるときから考え続けています。もちろん、
彼らも私が助かったことを喜んでくれるでしょうが、車で一人アクラに向かった
日、何となく後ろめたい気持ちがありました。ガーナの人たちが同じように助か
るわけではないですから。
(2003年10月「ボルガタンガ便り」より一部修正して再録)




